写真
「写真」と言うお題。
このお題に関連する出来事は、たくさんあり過ぎて逆に悩んだ。
「あだち充」だと触れ合いがないのでパスと言う結論をすぐ出せたのだが。
しばし考えて、まとまらず、これも見送る方向でいた。
でも、3000文字チャレンジに出会ってからは、勝手になんちゃってライターに成りきって楽しんでいる感が否めない。
「自己都合で断ってはプロではない」と妄想しながら頑張っていると、記憶の片隅からその写真が舞い降りてきた。
その写真は2枚あり、どちらも男の人の写真だった。
幼い頃、母親の不在時に好奇心でタンスの引き出しを何気なしに開けてみてしまったのだ。
何かを探した訳ではない、ただ何となく。
何を所有しているのか知りたかったのだと今は思う。
小学校に上がる前の未発達の脳味噌では、あまり深いことは考えていない。
そこに理由もない。
だが、引き出しにはおもむろに男の人の写真があった。
その他、ケースに入った印鑑だとか、封書だとか、何かごちゃごちゃあったのだが、
特に何かに包まれていたでもなく、むき出しで2枚あった。
「どちらかが、パパなのかもしれない」
物心ついた時に父親がいなかった私は、余計な思い出など一切ないので母子家庭でも特に父親の必要性を感じないで育ってきたと思われる。
2歳で離婚していたのでは何も覚えてはいない。
必要性を感じなかったのは、預けられていた先の家庭のおじさんが、とても私を可愛がってくれたからかもしれない。
私よりも年上の娘が2人いたのだが、その人たちと同様に可愛がってくれた。
その家のおばさんのことを「おばちゃん」と呼んでいたけれど、そのおじさんのことは
「パパ」と呼んでいた。
もちろん、本当の父親でないことは幼きながらも知ってはいたのだが、そう呼んでいた。
父性愛はそれでなんとなく満たされていたように思う。
よくありがちな、友達のお父さんを羨ましがったりしたことはなかった。
それは「知らない」から。
最初からいなければ、欲しがる必要性がないのだ。
大人になるまでに、色んな友達の色んなお父さんに出会う。
思春期の頃は、いかに不潔でうっとうしいか、洗濯物は別にして洗ってもらってるだの何だのと友達から聞かされて、
あたしにはそんな父親というものがいなくて良かったとすら思った。
存在意義も不可思議だった。
この頃、ただ少し困ったのは、父親のいない自分のことを周りが真剣に「可哀相がった」ことだった。
同情されたのだ。
父親あるあるみたいなネタを話して談笑している時だったと思う。
「うちは離婚しているから父親はいない」と告げると皆がどん引いた。
なんかゴメン、的な意見もあったと思う。黙っていればよかったのか。
でも「こえりだの家ではどうなの?」と振られたんだと思う。
益々困った私はなんとかお道化てみせて笑いを取りにいったのだけど、
それが「わざと明るくふるまってる」ように見えたのだろうか、友達はますます押し黙り、腑に落ちない展開になっていった。
こんな場面は、比較的お嬢様の多かった女子高でも結構遭遇した。
小・中・高とこんな感じではあったのだが、小学校上がる前の認識と言うのはよくわからないけどとてもおかしく、へんてこだった。
アパートの前には川が流れていて、その周辺は庭のように広がった空間があって、私はよくそこで遊んでいた。
父親のお墓を作って、毎日お花とお供えものをしていた。
お花はもちろん、その辺のたんぽぽやヒメジョオン系の雑草だし、お供え物は特別な泥団子だ。
何かお願い事をしていたのか何なのかは定かではない。
父親っていう存在は死んだ事にしたほうが都合が良かったのだろうか謎だ。
5~6歳の本能はそう答えを出したのだろうか。
そんな頃に母親の引き出しから2枚の男の人の写真が出てきたのだから、
「このどっちかがパパなんだ」
と、思っては母不在の時に引き出しを開けては眺めていた。
でもそれは、自分だけの楽しみで、母には言わなかった。
ズボラな母だったので、引き出しの乱れなどまるで気づかず、娘に中身を物色されてるとは思わなかったであろう。
いつしか時は流れて、東京の郊外のこの地を離れて引っ越す事となった。
引越し先の母の実家に持ってこられたタンスの引き出しからはいつのまにか父たちの写真が消えていた。
引っ越した先での友達づきあいに忙しくなってきた私は、次第にそんなことも忘れていた。
相変わらず、父性を恋しがる事はなかった。
実家には、母の兄がいたからだ。その伯父が結婚するまでは一緒に住んでいた。
父親はいないけど、何だかいつもそれらしき存在はいたと言うことになる。
そんな頃、父たちの写真が入っていた引き出しのタンスの他に、母は洋服ダンスも持っていたのだが、その洋ダンスのガラスの小窓のついたスペースから、とんでもないものが見つかった。
・・・見つかったというか、また久しぶりに漁ったのだ。
母も祖父も祖母も伯父も、誰もいない時があったのだと思う。
誰かがいるときにそんなところをゴソゴソ漁っていれば、怒られるに決まっている。
漁ってとんでもないものを見つけたという事は誰もいなかったのだ。
そのとんでもないものは〇〇写真館と書いてあり、和紙のような造りで仰々しくできており、「これは結婚式の写真だ」と小学3年生ぐらいだったかと思うが、そのぐらいはわかった。
開いてみると、花嫁姿の母親と見知らぬ羽織袴姿の男の人が写っている。
仰々しい造りの写真はもう1枚あって、そちらはドレスとタキシードだ。
だが母の隣にいるその男は、幼い頃に引き出しから見つけ出した、写真の主と違う。
2人のうちのどちらかでもない、第3の男だった。
仰天した。
これはもう黙っていられず、どこかから帰ってきた祖母に尋ねてしまった。
「これは誰??」
「・・・〇〇さんだ。おまえの父ちゃんだ」
「・・・父ちゃん???」
何だかもうよくわからかった。ずっと父親だと思っていたあの2人は誰なんだ問題と、
この私に全然似ていない男の人が本当に父親なのか問題と
今何してるんだ、どこにいるんだ、どうなっているんだ問題と
色々が複雑に絡み合ってしまった瞬間だった。
詳しいことはかーちゃんに聞けと祖母は言うのだが、そのかーちゃん、
「いい機会だから、おまえにちゃんと話しておくよ」なんて展開には絶対にならないかーちゃんだ。
その後、事あるごとにしつこく聞いては怒られたり、殴られたりして、疑問は全く晴れないのだ。親戚にも密かに聞き込みをしたのだが、
みんな知ってる風だが、小学生デカに真剣に教えてくれる大人はいなかった。
そんな孫を不憫に思ったのか、事あるごとにしつこく聞き出す私に、祖母はぽろぽろと教えてくれたりした。
聞いたところで、何も変わらないことだけはわかっていたので、次第に私の興味も薄れていく。謎のままであったが、その父親が私を迎えにくる訳でもなく。
なんとなく、世話好きの誰かが母に再婚を進めたり、そんな話を持ってきたりしたのだが、母は遊び歩いて全くその気はなかったらしく、
でも本当は純粋な愛をその父親に貫いていたのか何なのか、よくわからなかったけれども、
相変わらず事あるごとにちょっとだけ父について聞いてみたり、そしてまた怒られたりしながら私は10代を過ごしていったのだ。
本当の父親に、22歳の時に再会することとなったのだが、そこから長い間「抑圧された父へのねじ曲がった想い」がスパークする事となる。
その少し前に、引き出しから見つけた2枚の写真の男の人が誰だったのかわかってほっとした。
それはブロマイドで、一人は「清水健太郎」、もう一人は「草刈正雄」だった。
知らない人もいると思うが、当時のアイドルだ。
どちらかが父親だったらどんな人生だったのだろうかと、ちょっとだけ思うが今がいい。
今この人生で良かったと思っている。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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— 3000文字チャレンジ公式アカウント (@challenge_3000) 2019年4月11日
「ルールが綺麗にまとめられてる!」
「すごいでしょ?」
「え?主催者が作ったの?」
「そんなわけ無いじゃない。ねこまにあさん、素敵な人よ」
「やっぱり。あいつがこんな事やるわけないか」
「もう、助けられっぱなし」#3000文字チャレンジ は皆様のおかげで成り立っております。 pic.twitter.com/p6QzrnGSgx